室町時代、将軍足利義詮が熊野水軍の安宅(あたぎ)氏に淡路沼島の海賊の討伐を命じたことから、安宅氏は淡路島へ拠点を置くようになりました。安宅氏は淡路各地で勢力を持ち、中でも洲本、由良、千草、炬口、安乎、岩屋、三野畑、湊は安宅八家衆と呼ばれました。
安宅氏が炬口八幡神社背後の山頂に炬口城を築いたのは永正2年(1505年)と伝えられています。この城は江戸時代の天守や石垣を持つ城とは異なり、山を削り土塁で囲った簡素な山城でした。今でも炬口城遺構には当時の土木技術のダイナミックさを伺うことができます。安宅氏はこの城から大阪湾を見通し水軍の指揮をとっていたと考えられます。当時の炬口の人々も水軍で活躍していたのかもしれません。
安宅氏は炬口八幡神社を厚く信仰し、特に安宅駿河守吉安は大永7年(1527年)八幡宮縁起一巻と伝新田義貞着用の甲冑を奉納しています。現在、甲冑は3月の炬口八幡神社春の例祭で公開されています。