天正九年(1581年)、炬口を拠点にしていた安宅氏は豊臣秀吉によって滅亡し、炬口城もその時に廃城となりました。そして秀吉の命により蜂須賀氏や脇坂氏、藤堂氏らが洲本に入り一帯を支配しました。その後、徳川家康の江戸幕府による幕藩体制が始まると、当初は池田氏が由良城を築き淡路島を治めましたが、大阪冬の陣の後、阿波国(現在の徳島県)の領主である蜂須賀氏が淡路島も治めることになりました。最初、蜂須賀氏は由良城を淡路島支配の拠点としていましたが、寛永8年(1631年)に城代に稲田氏を任命し、由良から洲本へ拠点を移すことを命じました。それ以降、江戸幕府が倒れるまでの約250年間、炬口は阿波藩の支配下におかれました。
阿波藩は水軍を持ち、戦の時や参勤交代の時に活躍していました。淡路にも水軍が置かれ、関船と呼ばれる軍船から小型の伝馬船まで、大小合わせて28艘を保有しており、それらは炬口の中浜や塩屋の船屋に係留されていました。江戸時代後期の淡路島の村々について人数などが詳細に記された史料によると、人数のところに「四百五十八人 加子」という記載がみられます。「加子」とは船を漕ぐ水夫のことです。
阿波藩主の参勤交代の航路は、冬期は徳島から沼島、由良を経由して泉州へ渡り、泉州の海岸沿いに大坂安治川河口へ入る和泉路、夏期は徳島を出て由良から淡路島の東海岸に沿って須磨沖に出て兵庫を経て大坂に至る淡路路の2つありました。参勤交代の際には各浦に加子(水夫)の役が割り当てられていましたが、藩主が淡路路を利用する時は炬口の人々も水夫として活躍していたと考えられます。