古代日本には“海人(あま)”と呼ばれる人々がいました。海人には、現在の海女のように、海岸付近に住み海に潜って貝類を採集して暮らす人もいましたが、その多くは魚を追って海上を移動して暮らしていました。海人は日本各地にいましたが、瀬戸内海には特に多くの海人が住むようになりました。波が穏やかで海上生活に適していることに加え、畿内の王権からの要請にすぐに応える必要があったからです。巧みな航海術を持つ海人たちは重用され、要請があれば、天皇家の大型船に乗り込んで水夫としてはるか遠くの朝鮮半島まで遠征したのです。淡路島にも多くの海人がいたようです。炬口などの東海岸の浦々と、大阪湾をはさんで対面の都との間には海人が操る舟によって新鮮な魚介類や生活に欠かせない塩が運ばれました。
その後、海人という言葉は使われなくなりましたが、戦国時代に由良や炬口に淡路水軍の拠点が置かれると人々は水軍の一員となり、江戸時代の阿波藩の支配下では藩主の船の水夫として従事しています。時代が変わっても海に生きる知恵や技によって海と共に生きる姿に、古代海人の伝統が受け継がれているといえるでしょう。